古川 「江戸東京の父」

~七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき~
これは後拾遺和歌集に収められている和歌です。
「七重八重と折り重なるようにして山吹の花が咲いているけど、実が一つもないのは寂しいなぁ・・・」という意味です。

突然失礼しました。東京支店の古川です。
今日は落語の演目の一つ「道灌」の元にもなった江戸東京の父「太田道灌(おおたどうかん)と、この和歌にまつわるエピソードをご紹介します。
ただ「太田道灌?誰・・・?」と思われる方が殆どかと思いますので、まずは簡単に纏めてみました。

◆太田道灌 おおたどうかん(1432~1487)
太田道灌は室町時代後期の武将。扇谷上杉家の家宰。
稀代の軍法家・歌道家であると共に築城の名人であり、更には政治や経済の分野でも優れた才を発揮した。一般には江戸城・岩槻城・川越城を築城したことで知られており、関東の文化及び経済の発展において非常に大きな役割を担ったという。また関東一円の神社のうち、日枝神社を始めとした50社以上は道灌により勧請されたものである。当時の関東地方は未開の平野同然であったことを考えると、現在の東京の礎を築いたといっても過言ではない。
道灌は日本史上最長の大乱である「永享の乱」及び「長尾景春の乱」において郡を抜いた活躍をみせ、ほぼ独力で終結に導いている。しかしその名声や才能、下剋上を恐れた主君・上杉定正により暗殺され、55年の生涯を閉じた。
その華やかな生き様や功績、悲劇的な最期は伝承として各地に伝わり、江戸時代に入ってからも広く民衆に愛されている。

このように道灌は悲劇の名将として江戸庶民に親しまれていたため、真偽は別として多くのエピソードが伝わっています。
その中の一つに「山吹の里」と呼ばれるものがあります。

ある日のこと、道灌は鷹狩に出かけたが、雨にあって民家に駆込む。すると出てきたのは少女であった。
道灌が「すまないが蓑(みの)を貸してもらいたい」と声をかけると、その少女は黙って山吹の花を差し出した。
意味が分からぬ道灌は怒り、濡れながら雨中を帰った。
その夜、道灌は家臣の一人から、
~七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき~
という和歌があることを聞かされる。少女は「山吹の花はあれども、貴方に貸せる蓑(実の)一つない貧しさが恥ずかしい」という応えを山吹に込めて伝えようとしたのである。
「私は歌道に暗い」と自らの不明を恥じた道灌は、その後歌道に精進し、後世に名を残す程の大歌人になったという。


益田玉城作「太田道灌 山吹の里」翠庵にて

このエピソードは、貧しさを古歌に喩えた風流な少女を称えると共に、道灌の素直さや向上心を示したものとして非常に人気があります。僕もそうありたいものです。
ちなみに旧都庁(現東京国際フォーラム)には、「江戸東京の護り神」として太田道灌像が置かれています。その視線の方向には江戸城(現皇居)があるそうです。
東京までお越しの際は是非お立ち寄り下さい!